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2012年11月

勝山の「だんじり喧嘩」を見に行きました。
 10月20碑の旭川源流の碑に参加する前日、10月19日(金)勝山祭りで行われる「だんじり喧嘩」を見に行きました。
 だんじり喧嘩を見て、新庄へ行き、民宿に泊まって翌日の源流の碑に新庄からの参加を計画しました。
 少し出発が遅れたので、到着後の第4ラウンドの中川町(旧トマト銀行前)での喧嘩までだんじりの通過を見ながら待ちます。
 寒いので、開場の目の前の酒屋は熱燗を売っていました。
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 「川若連」「上若連」といった提灯で飾った喧嘩だんじりが練り歩いて行きます。
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  だんじり(壇尻)のぶつけあう後部
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喧嘩の時刻表
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 9時になっていよいよ喧嘩のはじまり。
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 どこから人が集まったのかというほど人、人で道路がいっぱいになります。
 その真ん中で、二台のだんじりがを後ろ向きに押してぶつけ合うのです。
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 ぶつかった時に、木と木がぶつかる鈍いドスーンという音が腹まで響きます。
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イメージ 3イメージ 4 娘さん達は粋なはちまき姿でそれぞれの若連の応援をします。
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 こりゃあ男達は元気だすわいな。
 ※勝山喧嘩だんじりの歴史等は、下記のサイトで紹介されています。
 http://www.new-maniwa.mls.ad.jp/matsuri/kenka.asp
 勝山喧嘩だんじりの由来(勝山町史からの抜粋)
 「江戸時代」
  明和元年(1764年)三浦明次勝山に入封、次来慶応3年まで(1764~1867)
  天保10年(1839年)車楽(最初のだんじりの様なもの)祭礼に差出しの願い。
  添付11年(1840年)車楽(最初のだんじりの様なもの)町方屋台、子供芸の差出しの願い。
  嘉永7年(1854年)祭礼賑しの為、壇尻(ここで始めてだんじりの名前ができる)差出しの願い。
          (山本町、上町、中町、下町)(中川町、南新町)(西町)の3台が出動。
  文久3年(1863年)祭礼に付き、壇尻差出しの願い。
          (山本町、上町、中町、下町)(中川町、南新町)(西町)の3台が出動。
 「明治時代」
  明治年代(1868年)だんじりが出動。当時は御輿風の担ぎ(かつぎ)だんじり。
  明治後期     現在風の馬車台に屋台を組み込む形になる。
 「大正時代」
  大正年代     以降だんじり喧嘩が勇壮の盛り上がりをみせ、現在まで伝統を継承し、若連に受け継がれている。
  大正後期     元若連、中若連、上若連、西若連、城若連、新若連の6台となる。
 「昭和時代」
  昭和年代     元若連、中若連、上若連、西若連、城若連、新若連、旦若連、川若連、原若連の9台の喧嘩だんじりと、北若連、郷若連の喧嘩をしないだんじりの現在に形になる。
           現在11台
  
 とにかく、この喧嘩だんじりは実際に見るしかない。
 勝山の源流の碑の引き継ぎの時にお世話になった西井さんと一緒に写真を撮りました。
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 来年は、是非多くの方で見学に行きたいと思います。
 事務局のふる里の「喧嘩だんじり」と「さば寿司」は、最高ですよ。
 この日は、22時30分に新庄の民宿に入り、それから鍋を作っておいしいお酒を楽しみました。

旭川源流の碑は、10月13日に真庭市美甘からから新庄村へ運ばれました(その3)
(3)今井橋から道の駅メルヘンの里新庄
 今井橋を過ぎると、目的地の道の駅が見えてきます。
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 造成された団地には家が少し建っているだけでまだたくさんの空き地がありました。
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 宝田橋で新庄川を左岸に渡ると目の前が道の駅メルヘンの里新庄です。
 国道181号を横断して、目的地へ到着。
 役場の課長さん、黒田さん達が出迎えて下さいました。
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 役場の課長さんに美甘の澤本さんが通行手形を渡しました。
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 尾碕さんから小山さんに展示の記念品が贈られました。
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 天気に恵まれ、最高のリヤカーの旅となったこの日の旅に記念写真には大勢の笑顔がありました。
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 引き継ぎと展示が終了してから、昨年の旭川源流の碑建立者の㈱国六新庄作業所へ移動して懇親会を行いました。
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 昨年建立した源流の碑を見にいった方もおられました。
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旭川源流の碑は、10月13日に真庭市美甘からから新庄村へ運ばれました(その2)
(2)菅谷橋から円山石造物群まで
 新庄川の様子も7月の豪雨の時にかなり川底が洗掘されて、堰の部分や護岸の蛇篭が露出していました。
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イメージ 11イメージ 12 宇南寺橋のところで少し南側の山沿いに歩き、また右岸堤防に帰ってきました。
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 宇南寺橋の名前は、この橋の南にある「宇南寺(高野山 真言宗)」からきたものだと思います。
 宇南寺は旧美甘村屈指の真言宗の名刹で、開祖は行基とも空海とも言われています。
 盛時には2院6房があり、隠岐にご配流となられた後醍醐帝も、ここにお泊まりになられたということです。
 しかしその後徐々に寺運も衰え、一時は円通寺の末寺になったこともありました。
 今はかつての社寺林も、明治以降の伐採で大きく姿を変えてしまいましたが、それでも美作の穏やかな自然が、この寺の栄枯盛衰の全てを包み込み、訪れる人々の心を癒してくれるようです。
 本堂の太平堂は、県下有数の古い建造物で、鎌倉時代の建築様式をよく残し、県の重要文化財に指定されています。
 宇南寺本堂は岡山県指定重要文化財です。
 
 長田橋を過ぎ南の山際の道路を歩きます。
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途中の休憩地点で植物についての説明を聞きました。
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  休憩のあと稲刈りのすんだ田んぼの中を歩きます。
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 円山石造物群が見えてきましたが、山が崩れたのかのり面の修復が行われており、石像群がコンパクトに集められている感じがしました。
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 石像群の前には新庄村教育委員会の説明立て札が立っていました。
 明治44年(1911年)に、村内に疫病が流行し、多くの人がそれにかかり、なくなった人は33人いたそうです。
 そこで、村人達が死者の霊を弔い、再び疫病にかからないようにと祈りを込めて石像を造ったそうです。
 大正2~3年の頃に造られたものが多く、四国八十八ヶ寺の寺名と本尊などが刻まれています。
 牛馬供養のものもあり、全部で100基ばかりの石像群がこの山一体にお祀りしてあります。

旭川源流の碑は、10月13日に真庭市美甘からから新庄村へ運ばれました(その1)
(1)真庭市美甘支局から菅谷橋まで
 真庭市美甘支局に集まったのは34名。
 平坦で、距離も丁度良い7kmとあって人気のコースです。
 全員で出発前の集合写真を撮影しました。
 美甘の方も3名が新庄まで行くそうです。
 建立地からは浅原さんと辻野さんが参加。
 山口から横山さんのお母さんも初参加です。
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 10時20分頃少し遅れて真庭市美甘支局を出発、新庄から参加の小山さんがリヤカーを引きます。
 支局の裏側へ急な坂を下って旧出雲街道へ。
 
イメージ 2イメージ 7 途中、「川西醫院」と金文字で書かれた板の看板を発見。
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 酒の大好きな事務局が、「醫」の意味を説明しました。
 その元は、「酒に謎あり」小泉武夫著(日経ビジネス文庫)の下記の文章。
 「酒で体をなおす術」
 余談になるが酒が医薬と関係があったのは漢字の「醫」という文字を見るとよくわかる。
 「醫」という字は、以前は「醫院」とか「醫者」とかに使われたが、この文字をよくよく見ると「殹」と「酉」の会意文字であることに気づく。
 「酉」は申すに及ばず酒または酒壺のこと、「殹」は「薬草を封じ込む」の意で、すなわち「酒壺に薬草を封じ込み、薬酒を醸す」ことを示す。
 つまり、漢字ができたそんな古い時代から、薬材は酒壺に入れられて薬用酒になっていたのであり、当時の医者というのは、そのように酒を使った薬の処方まで担っていたのである。
 昔の医者は、今のように医療技術が進んでおらず臨床設備をも整っていなかったから、たとえば食道や胃、肝臓、心臓といった中枢器官を患ったからといって、今日の医者のように「では早速手術しましょう」などという考え方や方法は持っていなかった。
 しかし、そのままにしておいては病状は進行する。
 素早く患部に何者かを到達させて、治療をする方法はないものだろうか。
 そう考えた時、思いついたのが酒であった。
 酒はあっという間に体の隅々まで回る。
 その証拠に、酒を飲むと、酒に弱い人などは、5分もたたないうちに顔が赤くなり、10分後には前進が赤く染まる。
 「そうだ、この酒にお願いをして、薬を患部にまで急いで運んでもらおうじゃないか」ということになって、薬用酒が誕生したわけだが、このあたりのことをもとにして、「醫」という字をもっと深く考えてみると、今一つ面白い解釈が成り立つ。
 「医」という字の意味は「矢をしまう箱」、「殳」は「手で立てて持つ矛」(矛とは剣の一種)、「酉」とはもちろん酒のことで、つまり「酒に矢や矛をしまい込んだ箱(手術箱)を運ばせて治療をする(手術する)」のが「醫」なのだ、とう考え方だ。
 もちろん、この場合の矢や矛は薬材を意味することになるが、それにしても古代の中国の人たちは、実に奥の深い妙字を考えたものである。
 (「酒に謎あり」小泉武夫著・日経ビジネス文庫)
 
 暫く歩くと「鮮魚、青果物、仕出し、旅館「老松」」という看板のあるお店もありました。
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 魚屋、八百屋、料理屋、旅館という素晴らしい組み合わせのお店ですね。
  町並みの西端には美甘神社がありました。
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 ※美甘神社については、下記のサイトで紹介されています。
 http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=23047
 当社は太古から宮座山(現新庄村)に美甘郷の総鎮守神として味鋤高彦根命を祭る大宮所があった。
 御祭神の別名を御鴨神と申し上げたことから御鴨神社と呼ばれた。
 郷名も孝徳天皇大化2年御鴨と定められ、元明天皇和銅6年の詔により美甘郷となる。
 その後火災に遭い、美甘と新庄の2ヶ所に分けて祀られることになり、三条天皇の長和5年本庄宮原の宮峪に遷座する。
 天正4年守護森家の時、町頭の現在地に遷座し、国司神社と並祀する。
 天正10年、例祭日の10月9日を10月19日に変更する。
 明治6年、それまで御鴨神社としていた社名を美甘村の総社として美甘神社と改める。
 明治43年同村平島の惣社神社、宇南寺の八幡神社、その他数社を合祀する。
 よって御祭神も主祭神の他大国主命、須勢理毘売命、素盞鳴命、大山祇命、誉田別命、少彦名命、神功皇后、武内宿禰、と多くなり、境内には本殿の他、疫神社、若宮神社、その他小さな末社が4社ある。
 本社の由来を示すものとして、神社の宝物となっている平賀左衛門太郎元義の「美甘神社考証書」がある。
 これは、元義が新庄村の宮座山と一宮社(本社)を歴訪しての帰り、神代村の社家神田家に足を止め、酒に浸りながら書いたと伝えられ、神社の由緒のみならず、古代から中世にかけての美甘荘歴史の一端をうかがうのに参考となる資料でもある。
 
 古い出雲街道の町並みを過ぎるて国道181号に出て歩いていると、岡山県知事に立候補している一井暁子さんの選挙カーとすれ違いました。
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 一井さんは、選挙カーを降りて、源流の碑の皆さんといって握手をしました。
イメージ 3イメージ 4 残念ながら、一井さんは知事選には敗れました。
 を菅谷橋まで歩いて新庄川の右岸に渡り、右岸堤防を西に歩きます。
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旭川源流の碑は、10月6日(土)真庭市勝山から美甘へ運ばれました。
(2)杉の乢から真庭市美甘支局
 杉の乢の峠で休憩して、神代へ向けて下ります。
 リヤカーは、後側のロープを引いてブレーキをかけながら下ります。
 出雲街道の新しい石標が設置されているのを発見しました。
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 歴史を見直す動きが出てきていることを喜びました。
 峠を下りきると国道181号です。
 新庄川も見えてきます。
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 ここからは新庄川の左岸沿いに歩きます。
 幅も広くなりますが、交通量は多くなります。
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 暫く北へ歩いて、神代の四季桜が咲き始めているのを見ながら歩きます。
 やがて行く手の左側に石灰岩のきれいな岩が見え始めます。
 竜宮岩です。
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※「竜宮岩」の写真等は下記のサイトを参照して下さい。
 http://cms.top-page.jp/p/maniwa/3/3/22/
 新庄川の清流で浸食された雪白の石灰岩が奇岩を創り出し、その見た目がまるで「龍宮」をイメージさせることから、この岩を「龍宮岩」と呼ぶようになりました。
 下流200mまで美しい岩のアートが続き、その先の左岸には「作西の三清水」の一つと伝えられる「鬼清水」も湧出。
 これは食通とも名高い出雲の国の松平不味公が参勤交代のおり愛飲されたとも伝えられ、石灰岩の穴から流れ出る2条の清水は、夏でも摂氏12度の冷泉をキープ。
 この一帯は勝山町指定名勝地にも指定されています。
 
 暫く、竜宮岩を見学して、ここからは当初の予定を変更して軽トラックにリヤカーを積み込んで出発。
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 首切トンネルを過ぎたところで、軽トラックからリヤカーを降ろして再び歩き始めます。
 ※首切り峠
 山中一揆の時に、新庄村の今井河原で斬首された5人の首が、この峠にさらされた。
 名もない百姓25人が斬首されさらし首にされたともいわれる。
 ※山中一揆については、下記のサイトを参照して下さい。
 http://can-chan.com/santyuu-ikki.html
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イメージ 6イメージ 7 首切峠を下りきると、「出雲街道新庄宿」と刻まれた石碑があり、ここから旧道に入ります。
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 古い宿場町の面影が残る美甘の町並みを歩き、真庭市美甘支局の裏側の進入路から支局の玄関を目指します。
 ここでの急な坂は、勢いをつけて一気に登り切りました。
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 美甘支局の玄関前では、澤本さんをはじめとする美甘の皆さんが出迎えてくれました。
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 勝山の初本さんから美甘の澤本さんに通行手形を引き継ぎ、尾碕さんから展示の記念品をお渡ししました。
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 引き継ぎの後、美甘の方達と一緒に集合写真を撮影しました。
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 源流の碑を展示させて頂いて、美甘支局の裏庭で交流懇親会を開催。
 平均年齢の高いが、とても元気な美甘の方達と一緒に懇親会を行いました。
 今年も、2000年(平成12年)に建立した鉄山川の源流の碑の移設の話題が出ました。
 あまりに山奥過ぎて誰も見に行けないので、もう少し下流の皆さんに見て頂けるところに移そうというものです。
 今後、具体的は計画を進めるとのことでした。
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 旭川源流の碑を建てて、山守・川守がこうして碑を大切にして下さるのは本当に有難いと思いました。

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