AR-NET(旭川流域ネットワーク)

カテゴリ:コラム > 雑学の泉(山崎泰二)

ARネットの仲間で「旭川源流大学実行委員会&岡山野生生物調査会」の総会後の記念講演を吉鷹一郎元高校の先生に案内を受けたので、自然環境の最前線を知る良い機会と参加した。
 専門家の話は二題で、「生物多様性の宝庫 水生昆虫の最近の研究」と題して立正大学の関根一希先生と、岡山県水産研究所の増成伸文研究員の「甲殻類の多様性・ガザミ鉗脚(かんきゃく)の左右性」の発表であった。
 一般市民の立場では専門用語も多く出て、正直解りにくいが、テーマの対象は身近な河川や沼にいるカゲロウや、瀬戸内の沿岸で見かけるガザミであって興味深く聞くことが出来た。
 特に専門家の研究対象の捉え方や、資料の作成分析は、参加していた生物系の学生やそのOBにとって、とても良い示唆を受けたことであろう。
 吉鷹氏は、今はそうした若者と同じ目線で指導されて、調査や保護のフィールドワークを長くなさっている奇特な方だ。
 ARネットの仲間でお会いする時は、こちらの歴史系の話しにも歩調を合わせて戴いて、気の合う仲間でもある。
 益々の活躍を期待している。素晴らしい学びの場になった。
 File1692   2020.令和2.1.14

今年は1月11日が土曜日で会社は休みとなり、例年事務所で行っている鏡開きの祝いを我が家で細(ささ)やかにした。
 昔の正月はこの日から「焼餅」をぜんざいにして祝った。
 
 集落によっては、「どんど祭り」の飾りを孟宗竹だけでくみ上げたものに縄状の飾りで仕上げ、「無病息災・五穀豊穣」等の感謝と安全を祈念する神事が、14日の夜か15日の朝に行われた。
 その折竹の先に餅を付け、初めて焼餅にした。焼餅は小正月までは食べない風習も今はない。
 最近ARネットの仲間が再現した「どんど祭り」の紹介があった。
 概要は
 大野川のいい川づくり
 日時 1月12日(日)10時頃から正月
       飾りや書き初め等を取り付けます。着火は10時頃の予定
 場所 岡山市御津虎倉大野 大野公会堂南約100m 旭川源流の碑前
 主催 大野川いい川づくり
 我が家では、庭で手を合わせ小さなドンド祭りを行う。
 正月3カ日が過ぎると人日の節句で,七草粥が春の芽吹きを感じさせてくれる。
 「今年は我が家の芹(セリ)の育ちがもうひとつ!」と妻の口上だが、長年の習慣はしっかりと実行してくれる。
 こうして年の初めの仕来りを粛々とこなせて次の世代に繋がっていくのだろう。
 安寧の日々が何より一番幸せだ。
 File1690   2020.令和2.1.12

先ずは鳥の仲間。スズメやカラスは日本中いや世界中の人間社会に一番近くに生息している。
 パリの街路に映し出されても、我が町の雀と何ら変わらない。
 カラスは「ごみの山を袋散らす」とイヤなイメージで見られるが、単にエサを捜しているだけで、勿論知恵としての悪意はない。
 しかし人間に追い払われる長い経験から、体内のDNAに「人間に近づくな!」と浸み込んでいて、間の取りようには感心する。
 スズメは雀の漢字ですが、隹は尾っぽの短い鳥のことで、少は小さい尾っぽの鳥で雀になります。
 一方のカラスは同じスズメ目ですが泣き声がガーガーと聞こえるので牙の字と隹で雅となりますが、こちらは優雅等の雅(みやび)と区分して鴉(カラス)の文字となり、略して烏(カラス)の文字が一般的である。
 人間に一番馴れ親しみなスズメ目の仲間のセキレイ=鶺鴒は日本の太古から住み着いて神話の世界にイザナギ・イザナミに国作りを教えてくれた。
 当時は「とつぎおしえどり=つつなわせどり」でした。
 尾ッポを縦に振るさまが少しSexyに見えるのは古代人も現代人の同じ感覚なのか。
 新婚の初夜の枕元に子宝に恵まれます様にと「鶺鴒台」を飾る風習は雅なものです。
 鶺鴒は海辺にはハクセキレイ、内陸部の多くはセグロセキレイで、林から小川が流れる清流は尾を横に振るキセキレイ=黄鶺鴒が目につく。
 この鳥は大人になると番(つが)いになり、生涯を共に過ごすことなどを古代人は知っていた。
 ペアーになる前若鳥のセキレイは単独で行動する。
  次回は「間」の取りようが上手な鳥を紹介する。
(File1689   2020.令和2.1.11)


 中国の天安門事件に象徴される人権無視を批判することは容易だが、今の日本の現実は経済至上主義で誰もが勝者を目指す社会である。
 国民皆中流意識で今ではその上を行っていると自負する気配も感じる。
 集団の中には一定の割合で、生まれながらにしての弱者が存在するのは学者が証明している。
 ならば社会全体で弱者に手を差し伸ばす政策がもっと充実されるべきだ。
 社会福祉のレベルは世界的に見て決して満足のいくものではない。
 健常者はそれ自体に感謝して社会貢献(働くこと)をして、その成果を社会弱者に分配する。
 そうすることで、人類の永続性が保証される。生物の社会では、優秀な健常者ばかりの社会は存在しないとの説も証明されていて、人類にも当然当てはまる。
 私も老齢になり弱者の仲間だが、健康の維持を図り少しでも社会の役に立ちたいと願う。
 そのためなら幾らかの不自由さは惜しまなく協力できる。無駄や浪費は最小限にして、リサイクルやたとえ食品の廃棄物でも堆肥にすれば国土が潤う。
 そんな小さな積み重ねが社会を豊かにするとの信念だ。
 弱者に優しい社会は、当たり前のことだが健常者も過ごし易い。
 社会の目線を弱者レベルに合わせる国民的モラルを望む。そんな社会に住みたい。
 File1467  2019.令和1.6.5

地面を飛ぶ鳥と歩く鳥 人との間合いの取り方が面白い
  我が家の周りは今でも自然が残っていて、住宅も多くなったが水田の広がりが、多くの野鳥を引き寄せてくれる。
 散策にはもってこいの光景が広がる。
 中でも少し大型の鷺(サギ)の仲間と、渡り鳥の鴨(カモ)類では人との「間=ま」の取りようが対照的だ。
 サギは溜め鳥だから年中見かけるが、何故か人を怖がらない、2・3mまでは目で警戒していても飛び立たない。
 しかし、古くから農家の人はイネを痛めるとしていやがるが、怖がるほどでもない。
 その理由が面白い。「サギの肉は不味い」ので太古の昔から人類がこの鳥を追い回すことはなく、一方のカモ類は渡り鳥でありながら人が近づけば飛び立ってしまう。
 理由は鴨の肉は美味しくて専門のハンター迄存在し、禁猟区を設定して保護をしていて、身近に鴨猟を見かけることはないが、その昔は人類の食材になっていた歴史の方が長い。カモのDNAに「人は怖い」と刷り込んであるのだろう。
 隣の森家の主人がまだ子供のころ引っ越して来た私達に、「カモは禁猟区のラインまで知っていて、安全地帯ではそんなに怖がらない」と宣うのを新鮮な想いで聞いたものだ。
 一方スズメ(雀)やセキレイ(鶺鴒)は同じスズメ科の仲間でありながら、地面を歩くのはセキレイで、ホップで移動するのはスズメである。
 都会の雑踏の中を、尾を振りながら歩いて近づくのはハトで愛嬌がある。
 概して大型の鳥は「歩き」小型の鳥は飛び跳ねながら地面を進む。
 当然サギは忍び足で川面の餌を狙い。日本の国鳥のキジは、斜面を駆け足で走りながら飛び立つ。
 それを猟師は狙い撃ちをする。
 まだまだ自然の多い近辺の散策に興味津々だ。
 雀は子育ての最中は昆虫が餌でイネの大敵の虫を捕獲してくれる益鳥だが、秋の稲穂に群れなす姿に人類の敵とみなされて追い払われる。
 それが身に染みているのか人間を一番恐れているようで、ハトやセキレイの「間」の取り方と大違いである。
 皆さんそんな見方で身近な鳥や生き物を観察して新しい発見があれば是非教えていただきたい。
 File1462  2019.令和1.5.31

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